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七瀬さん

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僅か目盛ひとつ分

17/03/24 コンテスト(テーマ):第130回 時空モノガタリ文学賞 【 失敗 】 コメント:0件 七瀬 閲覧数:268

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 夏の暑さが始まりかけた頃、私はいつもの様に買い物を済ませ、裏路地の日陰をゆっくりと歩いていた。いつもなら気にもしない道端のゴミやうたた寝をしている猫に混ざって、一つのラムネ瓶が落ちていた。そのラムネ瓶を見て、中に座り込む老人と目が合わなければ、きっと私はそのまま帰路へと就いていたのだろう。その時老人と話すことになったのは、まったくの偶然だった。
「何か、用でしょうか」
 しばらく老人と向き合っていると、彼の方から声をかけてきた。その声はラムネ瓶の中で数回反響し、私の耳に籠った音として届いてくる。
「あ、いえ、すみません、じろじろと見てしまって。その、何をされているのかと思いまして……」
「私は座っております。ただ、それだけでございます」
「座って?」
「はい。もう、何十年にもなるでしょうか。ずっとこの瓶の中で座っております」
 老人の座り方はとても丁寧だった。窮屈なはずのラムネ瓶の中で、一つの狂いも無く空間を見つけ、そこに四肢を折りたたんで座っている。どこにも無駄のない正しいラムネ瓶の中での座り方を、彼は熟知していた。
「何年も……どうして瓶の中にいらっしゃるのでしょうか?」
「それは……罰、とでも言いましょうか。私はかつて、罪を犯しましたので」
「罪、ですか?」
 老人は目を伏せ、それからゆっくりと口を開いた。遠い記憶の泉から、一掬いの水をそろりと差し出すようにして、彼は語り始めた。
「私は命を奪ったのです」

「私がまだ若かった頃、とある瓶の製造工場で働いておりました。毎日流れてくる瓶を眺め、どこかに不備がないかを確認していたのです。少しでも狂ってしまえば、それだけで売り物にはなりませんでしたから」
 私はもっと老人の声をしっかりと聴きたくて、彼がいる瓶の傍に腰を下ろしていた。
「ある日、いびつな瓶が一本流れてきたのです。とても些細な歪みです。瓶の底がわずかに楕円になってしまっただけの、あとは他と同じような瓶でした。けれども、そのわずかな楕円のせいで、その瓶は他の物よりも1ml多く入ってしまい、背丈が1o低かったのです。それだけで、売り物になることはできませんでした」
 彼の座っているラムネ瓶はすっかり古ぼけてしまい、所々に汚れが目立った。
「私はゆっくりと流れるベルトコンベアに沿うように両手を伸ばし、その瓶だけを抜き取りました。いつもと変わらぬ仕事風景です。あとはその瓶を再利用するために所定の位置へ持っていくだけでした。それなのに、あろうことか、私はその瓶を机の角にぶつけてしまったのです。瓶は綺麗に二つに割れてしまいました。出来上がったばかりで、どこにも汚れや染みが無い瓶でしたが、一瞬で割れ目から白く曇り、私の右手から流れる血によって真っ赤に染まっていきました。私は、取り返しのつかない失敗を犯してしまったのです。」
 老人はまっすぐに前を見つめていた。ラムネ瓶を割ってしまっただけだというのに、彼の告白は余りにも重たい贖罪のように聞こえた。
「でも、失敗は誰にもありますし、取り返しのつかないというのは……」
「はい、職場の仲間も同じようなことを言いました。人には失敗がつきものだ、気にするな、と。ですが、私は確かに一つの瓶の役割を奪いました。役割が無くなった物は、なんであれ命を失ったと同じような事です。人には失敗がつきものとはいえ、然るべき処分が下されなければなりません。失敗には罰がつきものなのです。故意でなくとも、失敗は罰せられるべきなのです」
 だんだんと日が昇り、私たちのいる日陰はどんどんと幅を狭めていった。
「ですが、誰も私を罰しようとはしませんでした。私の怪我の手当てをした後、皆一様に仕事に戻っていきます。私一人だけが、罪の重荷を消し去れずにいました。翌日、私はいつもの様に職場へと向かっておりました。その道中、一本の瓶を見つけました。それが、今私を中に入れている、この瓶なのです」
 遂に日陰は無くなり、夏の強い日差しが私たちを照りつけた。老人の方を見ると、ラムネ瓶が日光に当てられきらきらと輝いていた。隅々まで広がった汚れでさえも、その輝きの手助けをしているようだった。
「私はこの瓶が前日割ってしまったものだとすぐにわかりました。底が僅かに歪んでいたからです。私は迷わず瓶の中に入りました。私の手が奪ってしまった瓶としての役割を埋めるために、命をもう一度与えるために。1ml多く入り、1o短い背丈は、私の体に丁度の大きさでした。それ以来、私はこうしてずっと瓶の中で座っているのです。私の罪が消えるまで、この瓶の中で一生を過ごさなければならないのです……」
 それきり、老人は黙り込んでしまった。私は立ち上がり砂を払い、裏路地を家の方まで歩いて行った。途中見かけた売店で、気怠そうな少女が冷えたラムネ瓶を売っていた。


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