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時雨薫さん

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将来の夢
座右の銘 我ときどき思う、故にときどき我あり

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鯉と恋

17/03/09 コンテスト(テーマ):第129回 時空モノガタリ文学賞 【 都市伝説 】 コメント:1件 時雨薫 閲覧数:537

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 その人はごみじいと呼ばれていた。白髭に曲がった腰の老齢の男性である。素性はとんと分からぬ。ただ、彼と同じように狂った妻が同居しているという噂だけが真らしく流れていた。ごみじいという名は彼の奇行―あちこちのゴミ置き場から壊れた家電だの底の抜けたバケツだのを集めてくるというもはや動物的と言っていい習性に由来していた。
 ごみじいは街道沿い、我が下宿の向かいに大きな古民家を所有している。高い塀に覆われているから道行く人には中をうかがい知ることは出来ぬ。ところが我が四畳半からだけはその内部が一望できるのだ。低い窓の欄干に腰かけてみれば彼の生活の内情が手に取るようにわかる。
 一応断っておくが今現在私には老年男性の生活にこれっぽっちの興味もない。ただ見えてしまったのである。そして、この見えてしまうということが厄介な問題ばかり引き起こしてきたのである。
 第一の事件は三年前、この下宿に越してきてすぐのことである。田舎から出てきた世を知らぬ私には、ごみじいという世間にはありふれた迷惑ジジイさえ、小説の中の人物のように珍奇で魅力的な存在に思われた。悪いことには私にあてがわれた部屋はかの街道側の四畳半、私の好奇心はもはや抑制が効く状態ではなかった。朝も夜も部屋にいる間はとかくごみじいの行動ばかり気になった。定点カメラのようにごみじいの庭を観察していたあるとき、遂にごみじいと目が合ってしまった。私は焦った。汗が頬を伝っている。一分もせずに下が騒がしくなった。ごみじいが乗り込んできたのだ。がらりと襖が開いた。濁った眼が二つ私を睨んだ。その直後、ごみじいはさぞ驚いたことだろう。私はひらりと欄干を乗り越えて飛び降りた。高校時代体操部だった私は華麗に着地を決めた後、人を隠すなら人の中と市街地へ向かって逃げ去ったのである。悪かったのは私ではない。街道側の我が四畳半である。
 第二の事件は半年前、中秋の名月の夜に起こった。その晩は美しく晴れていたから普段は天体などに興味を示さぬ私も風流ぶって月を見上げていた。ぽしゃんと水の音が聞こえた。ごみじいの屋敷からである。私は目を疑った。前の事件までにごみじいの生活パターンは完全に把握していたから、ごみじいが庭に出ている時間に窓を開けるような愚はあえて犯さなかった。経験上、私は木曜の午後十時以降を安全と結論していた。にも関わらず、私は月光に照らされて立つごみじいを池のほとりに発見してしまったのである。体が固まった。氷水をかけられたようになった。ぼんやりと輪郭のない光の下で、ごみじいは正常な人間には発しえないほどの恐怖を発していた。徐にごみじいはこちらを見上げた。その後のことはよく覚えていない。隣人は我が四畳半から断末魔の叫びが聞こえたとだけ証言している。
 第三の事件、これはつい最近のことである。ごみじいの屋敷が燃えた。第一発見者は私である。夜分遅くだったから私は建物中の人間をたたき起こさねばならなかった。須臾にして炎は大きくなった。熱気は我が四畳半にも達し火の粉がちらちらと舞った。こちらの建物に延焼するのも時間の問題だった。私は多くない貴重品を鞄に詰めて河原まで避難した。古く細い道の多い街道沿いである。消防車はすぐには来るまい。
 結局、鎮火は翌日の昼までかかった。我が下宿はもはや骨組みが残るばかりである。ごみじいの屋敷も塀が焼け崩れ、本棟は灰に帰していた。何を失ったというわけでもないのに押し寄せてくる喪失感と非日常の連続とによって判断力の麻痺していた私は、何となしに自分をごみじいに装って、相変わらずの体で林立している黒く変色した家電の山を見て回った。一つ一つの山を評してこれはいい山だとか、こちらの方が味があるだとかぶつくさ言っていたのである。
そのうちに池のほとりに行きついた。緑に淀んだ水の中を鯉が悠然と泳いでいる。
「あんたのご主人は」私は鯉に話しかけた。
「きっとあの瓦礫の下だろう。生きちゃいないよ、残念だね」
「あら、何を勘違いしているのかしら?」
深みのある女の声がした。振り返っても誰もいない。
「主人は私、あの人は下僕。あの人は私に屈服したの」
鯉が静かに私の足元へ近づいた。引き込まれるような赤い背。
「あたしただの鯉じゃないのよ。美しいものに目がないの。けど、今回の下僕はまるで美の分からない人だったわ。見て、その悪趣味なオブジェ。それがあの人の限界だったのよ」
波が立ったので鯉の口元が少し笑ったように見えた。ごみじいの狂った妻というのは彼女のことだと悟った。
「あなたはそんな無能じゃないわよね?月くらいとってきてくれるんでしょ?」
唇に物が当たるのを感じた。水面から跳びだした鯉が私に接吻していた。
 鯉は私を放さないだろう。私の腰が曲がって、髪が真っ白になって、理性が深い霞に沈みきるまで。


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このストーリーに関するコメント

17/03/23 冬垣ひなた

時雨薫さん、拝読しました。

静かで落ち着いた筆致で、ごみじいという現代の社会問題を組み込みながら、奇譚というクラシカルな言葉にふさわしいラストに着地する所が良かったです。狂気を孕んだ物語ですが、巧みな情景描写がストーリーの陰鬱さを取り払っていて、良い意味で読みやすく共感できました。素晴らしい作品をありがとうございました。

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