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雪見文鳥さん

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幽霊と金魚

17/03/04 コンテスト(テーマ):第129回 時空モノガタリ文学賞 【 都市伝説 】 コメント:0件 雪見文鳥 閲覧数:362

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 私は一度だけ幽霊を見たことがある。あの日からもう何年も経っているのだが、今でもあの日の事を思い出すと、全身の血が冷えわたり、恐怖、後悔、何とも言えぬ黒い感情が、私の腹の奥で綯い交ぜになって踊る。
 だが、ひとつ断わっておきたいのだが、私は何も、幽霊を見たから怖かったという話をこれからしたいのではない。いや確かに、幽霊が現れた、その事実にも怯えていたのだが、この台詞だけでは私があの日感じた恐怖の本質は伝わらないだろう。私はあの日、幽霊よりも恐ろしいものを見たのだ。


 あれは、じめじめとした空気が体中にべっとりと貼り付くような、暑い夏の夜のことだった。その時、私はまだ大学2年生だった。私は、大学の3号館と4号館をつなぐ、渡り廊下の前に立っていた。辺りには誰も居なかった。私は、汗ばんだ右手でスマートフォンを握りしめた。
「万が一何かあった時、これが私の命綱になるからね」
 誰に対して言うでもなく、そう呟いた。
『左手に白いハンカチを握りしめ、夜の12時ちょうどに、うちの大学の3号館と4号館をつなぐ渡り廊下を渡ると幽霊が現れる』
 私が通っていた大学には、そのような都市伝説があった。
 当時の私は現実主義者で、幽霊のような根拠の乏しい代物を積極的に信じる類の人間ではなかった。だからこそこのような都市伝説を、実際に実行しようという気になったのだろうと、当時を振り返って思う。
 左手に白いハンカチを握りしめ、私は渡り廊下の前に立った。辺りには、私以外誰も居なかった。当然、外は真っ暗だった。夏の夜特有の、生ぬるい風が渡り廊下を吹き抜けた時、私の背筋が一瞬ぞわりとするのを感じた。この時引き返せばよかったのだが、当時の私はそれには構わず、渡り廊下を歩き始めた。
 一歩歩くたび、みしり、みしりと廊下が軋る音がした。夜の闇は、次第に私の心を言いようのない不安で包んでいった。この静かな渡り廊下で、私には、廊下が軋る音と、私自身の心臓の鼓動しか聞こえなくなっていた。右手に握られたスマートフォンは、私の汗でぬめりを帯びていた。
 スマートフォンのぬめぬめとした感触は、私の中にあるひとつの記憶を疼かせた。その時私はまだ小学4年生で、夏休みの自由研究をやっていた。題目は『金魚の飼育日記』だった。金魚の鱗はまるで絹のように光り輝き、小さな金魚鉢の中で、金魚はまるで妖精のような佇まいをしていた。金魚鉢に手を突っ込み、触れた金魚の鱗はぬめぬめとしていて、それが子供心に面白かった。
 けれども次第に、金魚は可愛いのではなく、可哀そうなのかもしれないと思うようになっていた。この金魚は、川とか池とか、もっと広くて自由なところで暮らすべきだったのに、私がこのような手のひらサイズの、小さな金魚鉢の中にぬいとめてしまっている。金魚鉢ごしに私を見つめる金魚の濁った瞳は、今でも私の目の奥に焼き付いている。


 廊下が軋る音が、尚も続いていた。たかが20mの渡り廊下が、妙に長く感じられた。外から漏れる月明りが、私の足元に影を映し出していた。歩きながら私を襲っていたのは、強烈な孤独感だった。誰でも良いから、私のそばにいてほしかった。
 だから、渡り廊下の向こう側に、1人の女性が現れた時、私は叫びだしたいほど嬉しくなった。すみません、助けてください! 私はそう叫んで、女性に駆け寄ろうとした。けれども、女性の足元を見て、私はぴたりと足を止めた。その女性には、影が無かった。
 この女性こそが、幽霊であると気づくのに、そう時間はかからなかった。私を見つめる女性の青白い顔からは、何の感情も読み取れなかった。ただ、女性は、まるで射貫くかのように、私の顔をまっすぐに見つめていた。私の足は、まるで金縛りにあったかのように動かなくなった。
「左手を見ろ!」
 誰も居ない廊下に、女性の声がきいんと響き渡った。慌てて左手を見ると、握りしめていた白いハンカチに、何やら赤いものが滲んでいた。
 血だ。
 咄嗟にそう思った私は、ハンカチをぱっと手放した。ハンカチはぽさりと床に落ち、ハンカチの中から赤いものがちらりと顔を出した。この時私は、さっきの赤いものは、血ではなく金魚だと気がついた。金魚は床の上をのたうち回りながら、濁った眼で私をぎろりと睨んでいた。
 金縛りが解けたのは、この瞬間だった。私はめちゃくちゃに叫び声をあげながら、廊下を駆け抜け、大学を飛び出した。決して後ろを振り返ることは出来なかった。
 事件の翌日、私は渡り廊下を見に行ったが、女の幽霊も、金魚ももう居なくなっていた。
 あの日、私は幽霊を見た。けれども、私にとっては、あの女の幽霊はそんなに怖くなかった。私にとって一番怖かったものは、あの日私を見つめていた、金魚の濁った眼だった。


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