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家永真早さん

ブロマンスやロマンシスが書きたい。 何気ない日常や、日常の中の非日常を書くのが好きです。 http://ienagaworks.php.xdomain.jp/

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掌中の命

17/03/01 コンテスト(テーマ):第130回 時空モノガタリ文学賞 【 失敗 】 コメント:0件 家永真早 閲覧数:387

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「俺のこと殺してくれよ」
 煙突から上る白い煙を見上げる神田の耳に、先輩の声が残っていた。
「もしも俺が植物状態とかになって、自分じゃ生きられなくなったらさ」
 驚いて目を丸くした神田に、先輩はそう言って笑った。
「……縁起でもないこと」
「まあまあ、もしも、もしもだ」
 神田が顔をしかめて咎める様子にも、先輩は尚もお軽く笑っていた。
「お前にしか頼めないことだ」
 そうさらに続ける先輩の笑顔の中、それも吝かではない心も神田の中にはあった。
 記憶に残る空の同じ青さが目に刺さる。
 先輩はまるで予言したかのように、それから一年後に倒れた。脳出血だった。
 先輩の妻から一報を受け、向かった病院で神田を出迎えたのは、彼の変わり果てた姿だった。
 頭に巻かれた包帯の下に見える顔は浮腫み、肌の土気色と包帯の白さの差が目立つ。口には人工呼吸器が宛がわれ、空気を送る音と共に胸が上下していた。
 それから延命措置を施された先輩は、喉と胃にチューブを差し込み、機械に囲まれた姿で神田の前に何日も横たわっていた。
「先輩」
 呼べども反応はない。先輩の妻も娘も、毎日声をかけているようだったが、その顔には諦めも滲んでいた。
「殺してくれよ」
 ポンプの音と心電図モニタの音だけが聞こえる病室で、先輩の声が鮮明に聞こえた。かつて、自分に頼まれたことだ。
 見舞う度に、その声は次第に大きくなり、神田の耳にこびりついた。
 生きていることだけが家族の希望であったとしても、この姿を、先輩は望んでいない。
 先輩の希望は、神田の手に託されていた。それが罪に問われることだとしても、先輩の願いならば一身に受ける覚悟はある。神田は、自らの手を眼前に掲げて見た。指の間から、隙間なく瞼の閉じた先輩の顔が覗く。
 神田は先輩から繋がれた機械の足元を見回した。電源ケーブルが人工呼吸器から壁へと伸び、何とも簡単にコンセントにプラグが刺さっていた。これが先輩の命を繋いでいるものらしかった。
 神田は壁へと足を向けた。三歩歩いただけでたどり着く。屈んで、プラグに手をかけた。ポンプが空気を送り込んでいる。心電図モニタの音が規則正しいリズムを刻んでいる。
 ベッドを振り返り、先輩の顔を見た。厚い瞼が微かに開き、湛えた光が神田を見つめていた。


 神田は引き戸を開け、足早に病室を出た。白い廊下を二、三歩進み、壁にもたれてそのまましゃがみこむ。俯けた顔から、リノリウムの床に滴が零れた。嗚咽が喉の奥からせり上がってくる。歯を食いしばり、声を殺した。震える肩を、痛いほど掴んだ。
 しばらくして足音が聞こえ、神田は逃げるように立ち上がりトイレへと入った。
「パパー、来たよ!」
 先輩の娘の声の後に引き戸を引く音が聞こえた。
 漏れ聞こえた心電図モニタの音は規則正しいリズムを刻んでいた。


 それから一日と経たず、先輩の容体が急変した。帰宅していた神田に先輩の妻から知らせがあるも、神田はその死に目に間に合わなかった。役立たずな後輩への、先輩からのささやかな復讐かもしれなかった。そして、後輩の手を汚させぬための、先輩の優しさかもしれなかった。


 神田は空を見上げたまま、煙草を吸い込んだ。吐き出した煙が煙突から上る煙と絡まって消えて行くのは目の錯覚だ。
「神田くん」
 呼ばれて振り返ると、先輩の妻が立っていた。間もなく焼き上がる知らせだった。
 もう一度振り返り、煙突を見上げる。名残の白い煙が青い空に溶けていった。


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