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笹峰霧子さん

今年は投稿できるテーマがあればいいな。

性別 女性
将来の夢 認知症にならず最後まで自分で歩けること
座右の銘 自分の意思は伝える 物腰は丁寧に

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神様の眼力なんていらない

17/02/28 コンテスト(テーマ):第130回 時空モノガタリ文学賞 【 失敗 】 コメント:0件 笹峰霧子 閲覧数:346

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 人は他人の心の中を見ることはできない。顔とか声とか、自分に向けられる表面的な好意とか、他人にしている行為などを通して相手の人となりを推察するのである。
先ず顔を見る。顔の中でも眼を見ることが多い。そして風貌に眼を配る。

判断力が疎い人間は、最も薄っぺらな相手の取り繕ったうわべを見て相手を判断するのだ。

 何年間にわたって良い人と思って付き合い、十年あまり経ってようやく相手の本心が見えてくると、これまで自分が思っていた人物ではないと思えてくることがある。

 今まで信じ切って何もかも考えなしに話していた気持ちが一変する。或る意味相手に対する心の中の裏切りである。
 裏切りが始まった時点で、すでに相手との縁は切れかかっているのだ。

 子供だったら(年齢に関わりなく)自分の思いが顔や行動に出てそこでぷっつんであるが、大人なら大体表面的には同じ態度でいようと必死で繕うことに専念する。そう思いながら付き合うのは今まで以上に努力が要る。

 そういう煩わしい行程を踏まなければならない者は見識眼の無さの故の失敗かといえばそうでもない。
 なぜなら知り合って何年間かは良い気分でお付き合いしていたのだから。

 親友でも恋人でも究極的には配偶者でも同じことが言える。
 もし人間に神のような眼力が備わっていたなら果たして幸せだろうか。
 それはないだろう。この世の中に付き合える人は皆無になるからだ。

 人間はもともと罪深い者としてこの世に生まれてきた。愛することも裏切ることもすべて経験しながら生きているのが人間なのである。そしてその度に悩み傷つき、己の非力を嘆く。


 私事でいえば、今は亡き母は亡くなる少し前までそんな幼稚な精神の持ち主であった。
 子供を育てるときに教えるべきことを忘れ、自分の辛さばかりを一人っ子の私にぶちまけていた。
 幼い時からそういう母の嫌な面を感じながら私は辛い気持ちで成長した。
 世の中の人が皆良い人だったらどんなにいいだろう、と子供心に感じていたものだ。

 私を扶養している当時の母の年齢をとおに越した今、私は果たして母を越える人間でいられるだろうか。
 さすがに自分の子供に訴えることはしないが、心の中は他人に対していつも疑心暗鬼だ。付き合いが始まり次第に完璧なる相手の薄皮が剥がれて行くにつれて、鈍な自分の脳にも本当のことが伝わってくる。鈍だからそれまでに随分年月がかかるのだ。その都度自分の愚かさを知る。そして相手との間に少しずつ距離を作って客観的に見るようになる。

 するとどうだろう。
 相手と話したり一緒に行動していても楽しくないのだ。
 まるで玉手箱を開けた時、宝物の代わりに白い煙が出たように、空しい気持ちが自分の心の内を占めている。
 あの頃は楽しかった…、なんて思っちゃうわけだ。

 それまで鈍な心で相手を眺め尊敬していた。そして次第に見えてくる現実。
 至近距離にいた相手を、遠くから見ている自分。何と意味のない時間を共にしているのだろう。
 嫌な気分だ。
 以前と同じように行動しているのに、自分にとって楽しくも有難くもない。

本当のことがわかるとこういう結果を生むのだ。
元々人を見る眼なんて要らないのだ。

 道を歩いていて穴に落っこちたり、オレオレ詐欺に騙されて老後の生活資金を奪われたりしないかぎり、人の心なんて読めなくても良い。わかる時期が来て次第に解ればいいのだ。裏切られていたとしてもそれが発覚するまでの間楽しませてもらったのだから。


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